企む職員室。[studioあおブログ]

企みつつ、育てています。

『いじめRPG』第1章 僕みたいな者 左子光晴

僕みたいな者

 

そうだ、今日死のう。

自分でも気づかないうちに、口からぽそりと出ていた。さっきまで晴れていた空からぽつぽつと雨が降り始めていた。横を通り過ぎたおばさんが僕の足元を二度見したが、もうそんなことはどうでもよかった。

 

僕は裸足だった。靴下は履いてたんだけど、こんな自分が靴下を履いていることすら、靴下に申し訳なくて、さっき脱ぎ捨てたところだ。母さんに買ってもらったばかりの、スニーカー。機能性だけを重視したよくわからないメーカーのスニーカー。あのスニーカーがどこにいったかは、もうどうでもよかった。雨が強くなる。カッターシャツが少しづつ僕の身体に張り付き始めていた。

雨の日だけは電車で通学していた。今日は晴れだったから朝は自転車で来た。帰ろうと思い駐輪場に行ったところ、タイヤはパンクし、かごは捻じ曲げられ、サドルは見当たらなかった。

この信号を越えて少し歩けば駅だ。昨日の晩は「電車 事故 迷惑」で調べた。電車事故は遺族にものすごい迷惑がかかるそうだ。多額の賠償金を電鉄会社に払わないといけないらしい。母さんに迷惑はかけられない。それに僕みたいな人間のせいで、たくさんの人が遅延に巻き込まれてしまう。

信号?そうか。赤に変われ。赤に変われ。赤に変わった。そしてごつめのトラックよ、やって来い。車に轢かれれば、運転手から多額の慰謝料が家族に振り込まれるだろう。母さんもハッピーじゃないか。いや、でもその運転手は何も悪くない。こんなぼくのわがままな自殺のせいで、その人の一生をおじゃんにしてしまうかもしれない。それに確実に死ねるかわからない。生き残ってしまい、後遺症なんて残った日には、母さんに一生迷惑をかけることになる。

 ダメだ。

車は一台も通ることなく、信号は青に変わった。ぼくは黄色いブロックの上を丁寧に歩いていた。これに落ちたら死ぬ。黄色。黄色。黄色。あ、途切れる。

 パシャ

 ん?

    豪雨?僕の右半身はぐっしょりと濡れていた。どうやら水をかけられたらしい。でもそんなことはどうでもよかった。濡れようと乾いていようと、ぼくの心が晴れることはないし、惨めさが助長されて、逆に死ぬことを肯定されているような気すらした。ほら、やっぱり生きるべきではないんだよ、君はって。

僕は一瞬立ち止まったが、水源を見ずに、また黄色ブロックを歩き始めようとした。

すると右斜め後ろから声がした。「ごめんなさい!めちゃくちゃごめんなさい!ちょ、ちょっと、きみ!」

反射的に僕は振り返ってしまった。そこにはバケツと柄杓を持った、おじさん?おにいさん?がいた。

 「考え事してたらつい…とにかく拭くもの持ってくるか…」おにいおじさんは、僕の足元を見て、黙った。

ああ申し訳ない。こんな関係のない人にまで哀れみの感情を抱かせてしまった。やっぱり僕みたいな者は死んだほうがいいんだ。もういい、帰って死のう。僕は再び歩こうとした。

 「コーヒーおごるから、5分だけ話さないかい?」


おにいおじさんは僕の背中にそう投げかけた。こんなナンパをしている人を、一度街で見かけたことがある。5分だけか…なんて考えていたら、僕は腕をがしと掴まれていた。「ね、ちょっとだけ。ちょっとだけね。」

僕は抵抗する気力も無く、おにいおじさんに引っ張られるがままに喫茶店の中に引きずり込まれた。

猿タコス?

 

壁一面が本棚に囲まれていた。あいつらが絶対に知らないような本や漫画がずらりと並んでいた。本は何冊か読んだことがあった。かなりの本を読んでいるはずの僕にも、まだまだ知らないものがあるんだ。

聴いたことのない音楽が流れていて、この店によく来るバンドの音源なんだ、とおにいおじさんは教えてくれた。自転車で来るときは違う道を通るし、歩いて来る時はいつも下を向いていたので、こんな変てこな店なのに今まで気がつかなかった。

「ホットコーヒーでいいかな?あ、ていうか、僕ミチロウって言います。遠藤ミチロウのミチロウね。」

「は、はぁ…」僕は気の抜けた返事をした。

ミチロウさんは年齢がよくわからない人だった。肌つやの感じからして20代後半くらいに見えた。ボートレースと書かれたよくわからないTシャツに、どこかのお酒メーカーの前掛けをしていた。

少ししてミチロウさんは白いカップを僕の前に出してくれた。湯気が立っている。触れるととてもあたたかかった。コーヒーを飲むなんていつぶりだろう。あれ以来かな。砂糖を二杯入れ、少し混ぜてからクリームを垂らし、色が馴染むようにさっと混ぜる。こういうのは身体で覚えているもんだな。

一口飲むとちょうどいい温度だった。「あ、おいしい…」僕は自分でも気づかないうちに言葉を発していた。どこかで飲んだ懐かしい味だ。

「よかった。」ミチロウさんは多くを語らず、黙ってタバコに火をつけた。山口や大原のように僕を囃し立てることも無く、僕が話し始めるのをじっと待ってくれているようだった。ゆっくりと時間が流れた。僕は頃合いを見計らい話しかけた。

 

「か、川村です。川村俊樹。ぼ、僕の名前。」

「かわむらとしき。かわむらとしき。ふーん。年は?」

「じゅ、16です。」

「川村俊樹、16才。ふーん。おっけ。川村くんね。よろしく。」

「よ、よろしく、お、お願いします。」

「あ、ごめん忘れてた!これタオル!」

「あ、い、いえいいんです。僕みたいな者は、濡れたまんまでいいんです。」

「川村くん、面白いね。」

面白い?僕が?裸足で道路を歩く僕を見て、面白いと答えるこの人は何なんだ。やつらと一緒の人種なのか?でもこんな美味しいコーヒーを淹れてくれる人だ。いや、でもこうやってすぐに人を信じてしまうから僕はダメなんだ。駄目なんだ…

「質問してもいい?答えれる範囲でいいから。」

「は、はぁ…」

「人ってなんのために生きてると思う?」

「え…?」なんだこの人は。やっぱりわからない。試されているのか?僕の返答次第で笑いものにしようとしているのか?いや、ひょっとするとここはあいつらが入り浸っていて、この人もグルで、僕をさらに苦しめようとしているんじゃないか?

「唐突過ぎたかな。じゃあ、少し聞き方を変えよう。川村くんはどんな人間になりたい?」

「ぼ、僕は……」

「あ、もう5分経っちゃったね。今から店の準備しないといけないからさ。また明日おいでよ。」

「え、いや…」

「次は川村くんの意思で来るんだ。とにかく明日、またここにおいで。もし川村くんが朝から来たいと言うなら朝から来てもいい。ずっとこの店を開けておくよ。」

「あ、朝は学校が…」

「学校に行きたくて行ってるのかい?川村くんは何がしたい?まわりなんて気にしなくていいから川村くんのしたいことは何?とにかくボクはずっと店を開けてるから、川村くんにその気があるならおいで。」

「は、はぁ…」

「それまでに考えとくんだよ。じゃあ。」僕は半ば強制的に店を追い出された。なんだったんだ。いったい何者なんだあの人は。

外に出ると雨は上がっていた。僕は自殺することをすっかり忘れて、ミチロウさんのことを考えていた。

 

 

帰宅すると、仕事が早く終わったと言って、珍しく母さんがいた。雨が降ったからと言って自転車を置いてきたことはごまかせたが、靴はどうしたと母さんに問いただされ、僕はうまく答えることができず、お地蔵さんに備えた、とよくわからない嘘をついた。最近学校はどう?と聞かれたので、「別に普通だよ。」と答えて、急いで部屋にかけこんだ。うまく振舞えただろうか。

誰にも何も言われない僕の隠れ家。父さんの蔵書がずらりと並ぶ自慢の本棚。ここにある本はすべて読んだ。僕はあいつらよりもはるかにたくさんのことを知っている。だけどそんなあいつらに僕はいじめられている。僕は底辺だ。

 

帰るといつもはベッドにごろっと倒れるのだが、シャツがまだ濡れていたので僕はスタディチェアーに背もたれた。シャツはピタと張り付いた。

引き出し開けると、あれ以来ずっと書いていないノートが、奥で埃をかぶっていた。

カバンから本を取り出す。びりびりに表紙を破られた本。世界に一冊だけの本。ページをめくると、たくさんの罵詈雑言がマッキーで書きこまれていた。僕はすぐに本を閉じ、そして目を閉じた。今日と言う一日を反芻する。

 

 

学校に着くと、上履きがかたっぽ見当たらなかった。毎日毎日飽きもせずよくこんなことをするな。僕は慣れた手つきでゴミ箱を漁り、上履きのかたっぽを拾い上げた。教頭先生と少し目が合ったような気がしたが、先生はそのまますっと職員室に入っていった。

教室に入ると僕の机だけが端の端に追いやられていた。これまたいつもの動作で定位置に戻した。くすくすと笑い声が背中から聞こえる。僕は気にも止めず席に着く。

「はい、10日目も無言でした。おれの勝ちー。ほら100円出せ。」山口グループから声が聞こえ、「ちっ」という舌打ちや、「ふざけんなよ!」という怒声が僕に向けられた。

予鈴が鳴った。みんなは机から教科書を取り出す。僕はカバンから教科書を取り出す。勉強するために毎日持って帰っているわけではない。自分のものは自分で守らないといけない。

休み時間は一人で過ごした。教科書を閉じ、本を開く。世界が沈黙する。活字の群れが僕の頭に流れ込む。金子兜太の詩に、理は革新/情は現状/蕎麦がき軍歌、というのがあった。

蕎麦がきが何なのか、僕にはわからなかった。恐らく終戦から一段落し、昔の兵隊仲間と集まって蕎麦がきを食べながら酒を飲み、酔っ払った末に軍歌を合唱する大宴会。戦時中に、理想の日本について仲間と語りあった日々を思い出し、革新的な気持ちが芽生える。しかし現実は仕事や家族に追われる毎日で、心の中では現状に満足している。そんな詩だろう。

僕には何一つ当てはまらなかった。現状にも不満を抱き、かといって変化を起こすこともできず、同窓会で校歌を歌うような友人もいなかった。そもそも同窓会に声をかけられることもないだろう。

気がつくとまわりには誰も居なかった。はっと時計を見ると2限目はとうに始まっていて、壁に貼られた時間割を見ると体育の時間だった。僕は昔から、本にのめる込むとまわりが見えなくなる。

今更急いでもどうせ出席はとってくれない。今日も諦めよう。これで何度目だろう。

 

昼休みはいつもの場所で過ごした。非常階段を駆け下りた焼却炉の隣。ここは校舎のおかげでいつも日陰になっていて、ひんやりとして気持ちがいい。

母さんは仕事で朝が早いので、毎日500円を昼食代としてもらっていた。僕は前日の夜にスーパーで安くなった、4個入りのクリームパンと牛乳を買う。人間が、いや、僕が活動するのに必要な栄養はこれで十分だ。そんなことよりも、この浮いたお金で本を買うことのほうが僕には大切だった。父さんも学生時代は、飯代をけちって本を買っていたという。そんな父さんを僕はかっこいいと思っていた。

本を読みながらパンをかじる。チャイムの音で昼休みの終わりを知り、急いで教室に駆け込む。授業は少し始まっている。これもいつものことだ。初めは怒られていたが、2学期が始まる頃には、担任の森川先生も何も言わないようになっていた。

 

すべての授業が終わる。クラスのほとんどが部活に向かい、数人は教室で、カラオケに行くといった会話をしていた。くすくすと笑われていたが、僕は気にする素振りも見せず、机の中に何も忘れていないことを確認して教室を出た。

今日は用務員のおじさんとも会わなかった。だから誰とも会話をしていない。僕が学校で会話を許されているのは、授業中に当てられたときか、用務員のおじさんだけだった。一日誰とも話さないことも珍しくはない。自分がどんな声だったのかを忘れることもある。

駐輪場に向かうと、見覚えはあるが、面影のないボロボロの自転車が転がっていた。ネームシールを見る。川村俊樹。胃がキュッとした。喉まで何かがこみあげた。下瞼に何かが溜まる。それでも僕はぐっと堪えた。あいつらには屈さない。僕は負けない。あいつらが知らない本を僕はたくさん読んでいる。あいつらが馬鹿すぎて僕を恐れてるからいじめるんだ。

おもむろにカバンを開けると本が無かった。あれ?机の中は見たはずなのに。僕は胸騒ぎがし、上履きに履き替えると急いで教室に向かった。

階段の踊り場で山口たちに出くわした。僕は目を伏せ端に寄る。大原は「死にたいやーつはー死ねー」と口ずさんだ。山口が笑う。それにつられて松本と寺田と内村がぎゃははと笑う。やつらが通り過ぎたところで、僕は階段を駆け上がった。

教室はがらんとしていた。自分の机を見る。嫌な予感がする。机の上には、本が置いてあった。見覚えはあるが面影のない本が。

「ごめん。」僕はそう呟いていた。その日初めて声を出した。

 

何かが崩れた。僕を支えていた何か。

黒い影が僕を包み込む。

正直になろうぜ。もうわかってんだろ?お前は底辺なんだよ。お前が読んできた本なんてなんの意味もねえんだよ。あいつらが馬鹿すぎるから自分をいじめるってか?ちげーよ。お前がまわりよりもはるかに劣ってるからいじめるんだよ。夏休みが明ければ何かが変わると思ったか?何も変わらねえよ。友達もいない、まともに人とも関われないお前に、いったい何の価値があるんだ?

 

下駄箱には僕のスニーカーは無くて、脱出ゲームスタート、と書かれた紙が置かれていた。

 

 

死にたい気持ちが、ぱちぱちといこってきた。僕は底辺の人間だ。生きてる価値がない。

カッターナイフを右手に握る。半袖のシャツからは、何の凹凸もない突っ張り棒のような白い腕が出ていた。女子のように華奢な指。肋骨が浮き出た貧弱な身体。申し訳程度ににゅっと生えている枝のような足。いつから髪を切ってないんだろう。肩にやや届かないその髪は、油分が足りずパサついていた。カリッカリに痩せた耳たぶ。

自分でも笑えるくらいに、いじめられっ子の、それだった。

 

 

まわりよりも劣っている人間だと、ずっと自覚して生きてきた。

僕は1853グラムで生まれた。すぐに保育器に入れられ、母さんはとても心配していたが、父さんは黒船来航の年だね、覚えやすいね、と笑っていたらしい。なんとかそこから大きくはなったものの、同年代の平均体重を越えることはついぞなかった。

勿論そんな身体に運動神経が備わることは無く、体育の時間を楽しいと感じたことはない。見るに見かねた母さんは、僕が小2の頃に空手を習わせようとしたが、父さんは俊樹の好きにさせれば、と言った。僕は父さんが大好きだったので、見学にすら行くことはなかった。あの時僕を殴ってでも空手道場に連れていってくれたら、ひょっとしたらひょっとしたかも…と思うが、もう今更遅い。

運動ができない代わりに、僕は数え切れないほどの本を読んだ。幼稚園の頃なんかは母さんが絵本を読んでくれた。正直退屈で仕方なかった。キャラや国、時代が違えど、お話のフォーマットはどれも似ていた。でも母さんが嬉しそうに読むので、僕は母さんの誠意に報いなければいけないと思い、全力で楽しむふりに努めた。

小学生になると僕は父さんの書斎に入り浸った。父さんはありとあらゆる本を持っていた。「また本買ってきたの?床抜けるからいい加減にしなさいよ!」と母さんによく怒られていたが、それでも毎月20冊は買っていたと思う。

週末になると、父さんと一緒に古本屋にいった。その古本屋には僕と同い年くらいの子どもはいなくて、大人やおじさんやおじいさんしかいなかった。「何か一冊選んでおいで。」と言われ、父さんは自分の世界に入る。初めは父さんにくっついていた僕だったが、次第に自分で本を探すようになった。僕と父さんは1時間後にレジで合流する。そのときに「お、渋いの選んだな。」と言われるのがたまらなく嬉しかった。

帰りはいつも喫茶店に寄った。商店街から少し歩いた地下街に、その店はあった。細長い店内には小さな机と椅子がひしめき合っていて、知らない人と相席することがしばしばあった。

父さんが学生の頃からおじいちゃんだったというマスターは「今日は何しましょ」と近づいてくる。父さんはいつもので、と答える。僕もいつもので、と答える。「はいはい。」とマスターは答える。「いつもので」と答えは決まっているのに、「今日は何しましょ」といつも聞いてくるマスターがいつもおかしくて、父さんはいつもニヤッとしていた。

父さんはブラックのまま飲む。僕には苦くて美味しくないので、砂糖を二杯入れてクリームを垂らして飲む。父さんは胸ポケットからロングピースを取り出し、タバコに火を点ける。そして買ったばかりの本を取り出す。

父さんの集中するときのルーティーンで、タバコを吸い始めると話しかけてはいけない、という暗黙の了解があった。タバコというものはリラックスしながら会話を楽しむためのものじゃないのか、と今となっては思うが、当時はそういうもんなんだと理解していた。それにお互い何もしゃべらず、ただコーヒーを飲みながらそれぞれ本の世界に入り込む週末の時間が、僕は大好きだった。

 

 

父さんにはたくさんのことを教わった。

昔「ムイミダス」というとても面白いコント番組があったこと。

ネパールにジャングルナイトツアーというのがあって、動物は一頭もおらずゾウの糞しか落ちていなかったこと。

落語は志の輔から入れば間違いないということ。

「亀は意外と早く泳ぐ」という映画がとても面白いということ。

高田渡の「コーヒーブルース」に出てくるかわいいあの子は店員ではなく、イノダで待ち合わせをしている子だということ。

たくさんたくさん話してくれた。

だけど僕は本に固執して、父さんの薦めるものには手をつけなかった。なぜかはわからない。本こそがすべてだと思っていた。

あの頃は楽しかったな。

 

僕はカッターナイフに力をこめた。左手首がぐっと沈む。これを引けば、すべてから開放されるんだ。いけ。いけ。いけ!

カキッ

嘘みたいにカッターナイフの先端が折れた。左手首からは、小さな赤い点がぷちちと滲む程度だった。右手は震えていた。

明日にしよう。僕はガクッと力が抜けて、そのままベッドに倒れこんだ。