『いじめRPG』第7章 ザラリホー 左子光晴
ザラリホー
ステージ③魔王の城:ラスボスに宣戦布告する
→いじめっ子に対してNOを突きつける
→いじめが止まらない場合、親・教師に報告する
帰宅した僕はご飯も食べず、早速コラムに取りかかった。とはいえ、パソコンの使い方がわからないのでひとまずノートへ。
ー小生、現役のいじめられっ子でして…
違う。
ーいじめというのは精神的にとても辛いものがありまして…
これでもない。
父さん以外のために書くことは初めてで、なんて書き出せばいいのかがまったくもってわからなかった。僕の言葉で、僕の経験を基にありのままか。ターゲットはいじめられっ子を持つ親。うーん。僕はどんなことを考えていただろうか。辛かったことはなんだろうか。手探りの中、僕はとにかくコラムを書き上げた。
1000字というのは、普段長編ばかりを書いている僕にはとても短く、書いては消し、読み返しては書き直しの連続だった。まぁこんなものか。うん。悪くない。
コラムを書き終えると僕は勢いよくベッドに倒れこんだ。そういえば昨日寝てないんだった。あーしずむー…シーツの繊維と言う繊維に細胞が染み出すかのように眠り溶けた。
9月16日 日曜日
昼過ぎにやっと目が覚めた。12時間以上寝てたらしい。腰も痛いし、頭がぼーっとする。こんなに寝たのは久しぶりだ。
ノートを見るとエニグマでしか解読できないような文字が羅列してあった。あーあ。これはパソコンで書き起こさないと。
リビングに行くと仕事が休みの母さんがいたので、僕は寝ぼけながらパソコンとノートを持っていった。
「母さんってさ、パソコン使える?」
「会社で触るくらいだからOfficeしか使えないわよ?」
「おふぃす?何それ?」
「あんたほんとに平成生まれなの?で、パソコンがどうしたのよ。」
「これ。パソコン貸してもらったんだけど、使い方がわかんなくてさ。」
「貸してもらったって誰に?」
「あー、すけねえさん。」
「すけねえさん?誰?」
「誰って…友達だよ。」
「ふーん。で、パソコンで何がしたいの?」
「文字を打ちたいんだけどどうしたらいい?」
「ちょっと貸して。」
母さんはパソコンを起動させ、ぱぱぱとWordを開いた。
「ローマ字入力はできるわよね?」
「まぁたぶん…」
僕は冴えない頭で文字をぽちぽちと打ち込んでいった。
「何書いてんの?」
「あー原稿。」
「原稿って?」
「雑誌でコラムを書くことになるかも。ていうか作家になるかも。」
「え、何それ?どういうこと?」
母さんの大きな声で、僕は目が覚めた。あたふたしてる内に母さんはノートを手に取り、黙々とそれを読み始めた。こんな形でいじめを告白することになるとは…やってしまった…大失態だ…
しばらくして母さんが口を開いた。
「俊樹…全然読めない…」
かろうじて難を逃れた僕は、冷静に事の顛末を説明した。いじめのことは伏せて…
母さんは心配するでもなく、喜ぶでもなく、よかったわね。とだけ言ってくれた。もっと大喜びするもんだとばかり思っていたので少し拍子抜けした。
キーボードを見ながら人差し指で文字を打ち込んでいく作業は、原稿を考えるよりもはるかに時間がかかった。慣れるまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。データ起こしを終えた僕は、gmailアドレスを母さんに取得してもらい、すけねえさんにデータを送った。すぐに「確認します。ありがとうございます。 すけ」と返信がきて、僕は早くも作家気分になった。
時計を見るともう16時を過ぎていて僕は急いで支度を済ませた。家を出るとき母さんは「待ってるわね。」と言った。僕は「そんなに遅くならないけど、先にご飯食べてていいよ。」と言った。
猿タコスには17時前に着いた。
「ミチロウさんこんにちはー。」
「やぁ。原稿はどう?順調?」
「もう書き上げてすけねえさんに送りました!」
「いいねいいねー。この調子で次のステージに進んじゃおう!」
「はい!」
「いよいよステージ③魔王の城です。このステージのクリア条件は魔王と言う名のいじめっ子に宣戦布告をすることです。川村くんはこの一週間ずっと自信レベルを上げてきた。たくさんの装備を身につけ、奥義を覚えた。それらの自信をフルに使って、魔王のいじめ攻撃に“NO”という反撃を浴びせる。うまくいけばここでいじめが終わるし、それがダメでも次の一手は用意してある。だから思い切って反撃してほしい。」
「なんか…できる気がします。今の僕は前までの僕と違うんです。何かうまくいきそうな気がするんです。」
「それでいい!何かうまくいきそうっていう不確かな自信を持てるまでになったんだよ。ほんとにすごいと思う。今日はその成功確立を高めるために、反撃の方法を考えて、反撃するためのイメトレをしようと思う。」
「イメトレですか?」
「きっと本番になると川村くんは緊張する。今まで自分をいじめてきた相手だ。いろんな辛かった思い出や、相手に対する恐怖。そういったものが積もり積もってうまく話せない可能性が高い。だからこそ良いイメージを何度も何度も頭に刷り込むんだ。こういう状況だったらこう反撃する、この場面ならこう言うといった具合に、様々な状況下でどう立ち振る舞うかをイメトレしておくと、その通りに身体が動きやすくなるということ。」
「なるほどー。まぁなんとかなると思います!」
「うーん…まぁそれだけ自信があれば大丈夫かもしれないね!よしわかった。いじめに対する反撃の目的は、いじめっ子に対して、いじめに抵抗する姿勢を見せること。その上で反撃の方法には2つの選択肢がある。1.動的反撃。2.静的反撃。」
「どういう意味ですか?」
「平たく言うと、1.は物理的反撃を仕掛けること。例えば殴りかかるとか、机をぶん回すとか、彫刻刀を投げるとかね。これはいじめが止まる確率も高いけど、その分反撃する勇気もいるし、失敗したときに仕返しされる可能性もある、ハイリスクハイリターンな戦略。次に2.は口で反撃すること。これは抵抗姿勢を見せるという目的を達成するには一番いい方法だけど、いじめっ子によっぽどのリテラシーがない限りすぐにいじめは収まらない、ローリスクローリターンな戦略。ちなみに3.トリッキーっていう選択肢もあって、これはあまり現実的じゃないんだけど、とにかく関わらないほうが身のためということをわからせる目的で、ヤバいやつを演じる。例えば教室に豚の臓物を撒き散らすとか、教壇の上でうんこするとか。いじめが止まったとしても別の意味で避けられる可能性があるので、ハイハイリスクローリターンな戦略ってとこかな。」
「あ、もう2.しかあり得ないですね…1.と3.は僕にはちょっと…」
「ですよねー…1.はよくマンガとかドラマで描かれてるんだけど、たしかに川村くんの性格を考えたときにはないかもね。ちなみにオシャにいさんはハサミで相手を切りつけたらしいよ。」
「あの人そんなヤバい人なんですか?」
「彼の場合は背も大きいし、当時は体重もあったから、動的反撃のほうが向いてたのかも。ここでのポイントは、いじめっ子はたちが抱いている、“いじめられっ子は抵抗しない存在”というイメージをぶち壊すことなんだ。だから自分に合った方法で反撃すればいい。」
「なるほど…体格の話をされると余計に2.ですね。」
「そうだね。それが川村くんには向いてると思うよ。じゃあ2.の具体的な反撃方法なんだけど、ここはもうシンプルに“いじめをやめろ”と伝えよう。」
「それだけ?」
「それだけでもかなり気力を使うと思うし、何より目的は達成できる。」
「静的反撃でも、一発でいじめを止める方法はないんですか?」
「うーん…止まるかは相手のリテラシー次第だけど、止まる確立が高いのは、呪文「ザラリホー」かな?」
「なんですかそれ?」
「ザラキっていう敵グループの息の根を止める呪文と、ラリホーっていう敵グループを眠らせて動きを止める呪文があるのね。これをザラキ→ラリホーの順番で相手に唱えるのが、呪文「ザラリホー」。心理学に、最初に断られる前提で大きな要求を提示して、その後に本当の目的だった小さな要求を通す、ってテクニックがあるんだけどその応用だね。」
「ちょっとよくわからないです…」
「いじめをやめなければ法的措置をとる。だけどもし今止めてくれるなら、今までのことは水に流して忘れる。さぁどうする?って具合に相手に提示するんだ。」
「あいつらは社会的に終わることを怖れて、いじめをやめると。なるほど。」
「これはこれで激昂されるリスクもあるし、あまりお薦めはしないけどね。」
「いや…なんか言える気がします。早くいじめから抜け出したいんです!」
「まぁ川村くんがそう言うならチャレンジしてみな!何度も言うようだけど、もし「ザラリホー」が使えなかったとしても、いじめをやめろ、というのだけは伝えるんだよ。」
「はい!大丈夫です!」
「よし、じゃあイメトレしてみよう!」
僕はいろんな場面を想定した。
朝学校に行くと上履きがなくなっている。
教室に入ると、僕の机だけが教室の隅に追いやられている。
教科書に落書きされ、物を隠される。
休み時間にトイレに呼ばれ、殴られる。
昼休みにパシリをさせられ、お金も奪われる。
山口、大原、松本、寺田、内村。頭の中で僕は彼らに敢然と立ち向かう。「いじめをやめろ。」そして呪文「ザラリホー」を唱える。あいつらはばつの悪そうな顔をして、「今まで悪かったな。お前がそんな風に抵抗してくるなんて思わなかったよ。ごめんな。許してくれ」と言う。
いや、違う。「川村さんごめんなさい。もうしませんから何卒刑務所だけは勘弁してください。親には迷惑かけたくないんです。今まですいませんでした!」
うーん、悪くない。
たしかにイメトレは効果的だった。考えれば考えるほどに、僕は強くなっていった。山口の泣き顔。大原の土下座。心の靄が晴れていった。
問題ない。今僕にはいい流れが来ている。大丈夫だ。大丈夫。
ミチロウさんはふーっとタバコを吸い終え、いよいよ明日だね、と言った。
「そうですね!」
「がんばってね。何かあればうちにおいで。それから、スマホの録音ボタンを押してポケットに入れておくこと。」
「了解です。じゃあまた来ます。今日もありがとうございました!」
帰宅すると20時をまわっていて、リビングには二人分のご飯が手付かずで置かれていた。
「おかえり!」
「ただいま。あれ、まだ食べてなかったの?」
「俊樹と話したいなと思って。今日も楽しかった?」
「楽しかったよ!」
「今日も行ってたの?猿タコス。」
「そうだよ。」
「母さんも今度連れてってよ!」
「いいよ。またいつかね。」
「約束よ!でも楽しそうで何よりね。他は、何か話すことはない?」
「話すこと?うーん…特にないかな…」
「そう。じゃあごはんにしようか。」
「うん。お腹すいた。」
僕はさささとご飯をかきこみ、洗い物を済ませて風呂に入った。目をつぶりもう一度イメトレをする。うん。やっぱり大丈夫だ。あいつらなんて怖くない。あいつらは雑誌にコラムを投稿するなんてできない。あいつらには何もない。だけど僕にはある。負けないんだ。
その日はなかなか眠れなかった。イメージが浮かんでは消え、消えては浮かび、ずっと頭が冴えている。時計の針は一定感覚で進み続け、窓の外から車の音が聞こえる。右に左に寝返り。小鳥の声が聞こえる頃に、やっと眠りにつくことができた。
9月17日 月曜日
学生服に着替え寝ぼけまなこで洗面を済ませる。髪の毛をセットすると気持ちが高ぶってきた。朝食もいつもより美味しく感じる。よしいい感じだ。母さんに行ってきますと伝え玄関に向かう。
靴を履く。右。ひだ…胸がとくんとした。嫌な汗が出て頭がかゆい。あれ。すごく嫌な感じがする。この靴を履きたくない。この扉の向こうに行きたくない。
「大丈夫?」
振り返ると母さんがいた。5分ほどぼーっとしていたらしい。
「あ、大丈夫。うん行って来る。」
どうやって学校に着いたかはあまり覚えてない。気がつけば下駄箱に立っていて、やっぱり僕の上履きは無くて、ゴミ箱を探しても見あたらず靴下のまま教室に向かった。
「あれ、こんなやついたっけ?髪なんて切っちゃってさー。まだ生きてたのか?せっかく花買ってやったのによー。」
教室の隅に追いやられた机の上には、花瓶が置かれていた。僕は机を戻し、花瓶を床に置いた。すると山口と大原、そしてその取り巻きが近づいてきた。
「勝手に机が動くなんて不思議だなおい。幽霊でもいるのか?大原ちょっと座ってみろよ。」
山口に命令された大原が僕の上に座る。
「うわ、なんかここにいるよ!やべーよ!」
立ち上がろうとするが、大原の肘が邪魔で立ち上がれない。
「なんか勝手に動くよこの椅子。これは清めないとやばいよ!聖水かけようぜ!」
そう言って大原は花瓶の水を僕にかけた。山口たちの笑い声が響く。僕は俯いたまま、何もすることができなかった。
チャイムが鳴りみんな机に戻っていく。先生は教室に入るや否や僕を見て、「川村来てたのか。」と言った。僕はただただ俯くことしかできなかった。
時間だけがだらだらと過ぎていった。椅子に根が張ったかのように動けなかった。授業の声は頭に入ってこなくて、教科書も出さず、ノートも開かず、とにかく時間だけが過ぎていく。気がつけば昼休みになっていて、僕はいつもの校舎裏にとぼとぼと向かった。本も持たず、パンも無くて、ぼーっと空を見上げていた。
僕はいったい何をやってんだろう。
あいつらを前にすると何も言えない自分がいた。身体が固まって、何も言葉が出なくて、が真っ白になった。
あんなにもミチロウさんにお世話になったのに。自信レベルを上げたのに。たくさんイメトレしたのに…
悔しさがこみ上げる。涙が溢れる。だけどそれを拭う気力もなく、つーっと流れていく涙の筋がむずがゆくてもじっとしていることしかできなかった。
チャイムが鳴っても僕はそこを動くことができなかった。もうこのままここにいよう。いつか誰かが僕に気づいてくれるかもしれない。そっと手を差し伸べてくれるかもしれない。
スマホが胸元でぶるっと震えた。そう言えば録音することも忘れてたな。スマホを開くとメールが届いていた。すけねえさんからだった。慣れない手つきでメールを開くと、「誰に向けた文章なのかわからない。読めるレベルじゃない。やり直し。 すけ」と書かれていた。
あ、もうだめだ。
僕は数時間前に登校して来たであろう道を、歩幅を確かめるように白線をまたいで歩いた。途中猿タコスの看板を見つけたがシャッターは閉まっていた。元より、猿タコスに寄る気力を僕は持ち合わせていなかった。
切符を買って改札を抜ける。ホームには人がまばらで、僕は白線の一番手前に立っていた。あと一歩踏み出せば、あと一歩ですべてを終えることができる。圧倒的な絶望を前に、一周回ってもうなんでもいいやという気持ちが芽生えていた。あーもう楽になってしまおうか。十分がんばったじゃないか。
陰惨たる哉現状、遼々たる哉願望、五尺の小躯を以て此差をはからむとす。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可能」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に白線に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
そのとき回送電車がびゅんと目の前を横切った。僕は尻餅をついてその場に倒れこんだ。背中がじとっと濡れ、そしてパンツに温もりを感じる。その不快感は僕がまだ生きていることを教えてくれた。
僕はスマホを取り出し、電話をかけた。
「母さん、話したいことがあるんだ。」
母さんは慌てて帰ってきてくれた。「どうしたの?大丈夫?」その声を聞いて僕は泣いた。声を出して泣いた。母さんは何も言わず、ただじっと僕が泣き止むのを待ってくれた。
「…母さん。あのさ、僕、いじめられてるんだ。」
「よかった…」
「よかったって?」
「ずっと待ってたのよ。俊樹が話してくれるのをずっと待ってた。だけどもっと早く聞くべきだったね。一人で抱え込ませてごめんね。」
「違うんだ。話さなかった僕が悪いんだ。母さんに言ったら心配するだろうなとか、川村家の恥に思われるんじゃないかって…ずっと思ってた。だから、ごめん…なさい。」
「ほんと優しい子ね…きっとそうなんだろうなって思ってたけど、あたしからは聞けなかった。」
「どうして?」
「俊樹のやりたいようにやらしてあげなさいっていうのがあの人の口癖だった。俊樹はあたしよりも父さんのほうが好きでしょ?」
「そんなことないよ!」
「いや、そんなことあるわ。でもそれでいいの。皮肉とかじゃなくて、それで家族がうまくまわるならあたしはそれでよかったの。だから父さんが死んで、その役割を担う人がいなくなったときにあたし思った。今度はあたしがあの人みたいにならなきゃって。できるだけ俊樹の意思を尊重しようって。でもだめね。やっぱり心配になって、学校はどう?楽しい?ってそればかり聞いちゃってた。」
「だめな親子だね。」
「そうね。」
笑い声が我が家を包んだ。僕はそれから、今自分が置かれている状況をすべて話した。
いじめられていること。
それをずっと我慢していたこと。
そして今猿タコスで相談に乗ってもらっていること。
母さんは僕の話を聞き終えると、二回頷いてから口を開いた。
「母さんはどうすればいいかしら?俊樹はどうしてほしい?」父さんみたいに母さんは話した。
僕はぼうけんのしょを開いて、少し考えてから答えた。
「熱くならずに冷静に対処してほしい。僕はこれからいじめの証拠を集めていじめっ子と戦う。その証拠を校長や教頭に提出するから、その場に一緒に立ち会ってほしい。」
「わかりました。あたしに他でできることはあるかしら?」
「今のところ大丈夫かな。」
「わかった。でも俊樹、これだけは覚えといて。」
「何?」
「何があってもあたしは俊樹の味方だから。ほんとに嫌なら学校休んでもいいし、転校してもいいし、学校辞めたっていい。もし俊樹が一人で解決できないとなったら、母さんは刺し違えてもいい覚悟でいじめっ子のとこに行くから。」
「物騒だな…」
「俊樹は一人じゃない。それだけ覚えててくれたらいいから。」
「…うん。ありがとう。」
「あと一つ提案なんだけど?」
「なに?」
「お風呂入ってきたら?あんた微妙に臭うわよ…」
湯船に浸かりながら僕は考えた。
父さんが死んでから、僕はずっと一人だと思っていた。でもそれは大きな間違いで、母さんはいつも見てくれてたんだ。何も言わず、ただじっと僕が立ち上がるのを待ってくれてたんだ。
見てるつもり、知ってるつもり、というのは往々にして見てないし、知らないものだ。母さんは怖くて、厳しくて、うるさくて、それでいて弱いとばかり思っていた。だけどそうじゃない。我慢して耐えることがどれだけ辛いかを僕は知っている。それでも待ってくれていた母さんは、強い人間なんだ。
風呂から上がると、母さんはカレーを用意してくれていた。レトルトだけど、カレーはカレーだから。と言って、母さんが三人分のカレーをお皿によそった。そういえば今日は朝から何も食べてない。僕は父さんの分の、線香臭いカレーもかきこんだ。
部屋に戻り、僕は次にどうすればいいかを考えた。ぼうけんのしょを開く。考える。今自分がなすべきことは何か。考える。今自分にできることは何か。
いや、違うぞ。一人で抱え込むんじゃない。相談すればいいんだ。僕は一人じゃない。
なんて話すかも考えないまま、僕はミチロウさんに電話をかけた。
「はいはいミチロウです。川村くん?どした?」
「…あの…うまくいきませんでした。ごめんなさい…」
「そかそか!そんなこともあるよね!で、何がうまくいかなかった?」
「全部です…反撃もできなかったし、録音もできなかったし…授業の途中で逃げてしまいました。で、そのあと母さんにすべてを話しました。」
「いいぞ!ちゃんと逃げれたんだね。えらい。母さんに話したことはもっとえらい!よくできたじゃん!」
「いや…全然そんなこと…」
「前は、親に相談できないーって言ってたんだよ?それを話せるようになっただけでも、めちゃくちゃ進歩してるじゃん!やっと家族マヌーサから抜け出せたんだ。それに逃げたことで気力生成センターもぶっ壊されてない。現にこうして電話をかけてきてくれたんだ。すごいことだよ!」
「あ、ありがとうございます…」
「でも、このままにしといたらまた元に戻っちゃうから、できなかった要因が何か、その上で次にどうするかを一緒に考えよう。どうする?今からうち来る?」
時計を見るとまだ15時だった。
「いきます!今から支度するんで…あ、ちょっとやらなきゃいけないこと終わらせてからいきます!18時にはいけると思います!」
「りょうかい!じゃあ待ってるねー!」
「はい!ありがとうございます!」
電話を切ると、僕はパソコンに向かった。17時まであと2時間。1000字なら間に合う。
すけねえさんのメールを見返すと、また心がずんとした。誰に向けた文章かわからない、か
…ターゲットはいじめられっ子を持つ親…いじめらっれっ子…親…
あ、そうか!ターゲットは母さんなんだ。母さんが読みたいものを書けばいいんだ。母さんは僕がどんな状況になっているかを知りたかったはずだ。母さんは僕が何を思い、何を考え、どこで何をしているかを知りたかったはずだ。そして何より、母さんは僕に対して何をしてあげられるかを知りたかったはずだ。
どばーっとすごい速度で文章が頭に浮かぶ。タイピングがその速度に追いつかないのがもどかしい。もっと速く。もっと書きたい。1000字じゃ足りない。
ー「そうだ、今日、死のう」
一週間前の僕が学校の帰り道につぶやいた言葉。
このコラムは、今まさにいじめられている僕が、いじめを解決するまでの道のりを描いたものだ。いじめを解決できる保証はどこにもない。それでも僕は立ち向かう。変わると決めたから。ー
そんな書き出しだった。迷うことなく、指を止めることなく、ひたすらに書き続けた。17時前には2000字を書き終えていた。頭の中には、正しく配置された文章が山ほど残っていた。
「川村です。2話分送ります。まだまだ書けます。 川村」メール画面にそう書き込み、すけねえさんにデータを送った。
初めて母さんのために文章を書いた。またダメ出しされるかもしれない。それでも、折れずに何度でも書いてやろう。掲載されたら母さんに見せるんだ。ついでに父さんの仏壇にも飾ってやろう。
寂しいよって/泣いてても/何も元にはもう/戻らない/欲しいものはいつでも/遠い雲の上
18時前に猿タコスに着いた。どんな顔をして入ればいいかわからなくて、店の前で立ち尽くしているとミチロウさんがドアを開けてくれた。
「いらっしゃーい。待ってたよ。」
「あ、あの…」
「ホットでいいかい?」
「…はい!」
さてさて、と言ってミチロウさんはコーヒーを淹れてくれた。砂糖を二杯入れてかき混ぜ、クリームを垂らす。やっぱりここのコーヒーは美味しい。一口飲んで、僕はミチロウさんに謝った。
「とんでもない!ボクも楽観的に考えすぎてたのかもしれない。ごめんね。」
「ミチロウさんは何も悪くないです!僕もなんか、調子に乗ってました…」
「調子には乗っていいんだよ!じゃんじゃん乗っていこう!調子に乗れたから行動できた。行動できたから、できないことがわかった。残念な結果だーって思ってるかもしれないけど、行動しなかったら何も変わらず、何もわからない状態だった。だからいいんだよ。何度でも失敗すればいい。そして徐々にできるようになればいい。」
「…はい!」
「さて、コントローラブルなことから考えていこうか。まず、反撃できなかった要因は何だと思う?」
「なんて言うか…頭が真っ白になりました。家を出るまでは調子が良かったんです。だけどいざ家を出ようとしたら気持ちがずーんとしてきて。どうやって学校にたどり着いたかもわからなくて…」
「なるほどー。」
「教室に入ったら僕の机に花瓶が置いてあって、山口たちが絡んできました。まだ生きてたのかよって。花瓶の水をかけられても、僕は何も言い返せずそのままじっとしてました…」
「諦めようか!」
「え?」
「直接の反撃は諦めよう。これ以上気力をすり減らすのも馬鹿らしいし、さすがにいじめの度が過ぎてる。ちなみに先生はそのとき川村くんを見てどんな反応だった?」
「川村来てたのかって…ただそれだけでした。」
ミチロウさんはコーヒーカップをカウンターに叩きつけた。
「…川村くん…ボクね、珍しく怒ってます…全員がハッピーになる方法を考えてたけど、もうだめだ。いじめっ子にも、そしてその教師にも処分を下そう。」
「どうやってですか?」
「ステージ④に突入します。僕も手伝う。川村くんのためにも、社会のためにも、やつらに反撃しよう。」
コーヒーカップを持つミチロウさんの手が小さく震えていた。
そして、もう片方の手でスマホを取り出し、誰かに電話をかけ始めた。
ステージ③魔王の城クリア失敗
ー家族マヌーサから抜け出した
ー呪文「ザラリホー」を覚えた
僕はぼうけんのしょにセーブした。