エアーリーディング
・ステージ②酒場:自信レベルを上げる
→弱みを克服しつつ、強みを生かす方法を見つけ、どんどん強みを伸ばしていく
9月14日 金曜日
朝目覚めると僕は、真っ先に洗面所に向かった。
オシャにいさんが教えてくれた通り、髪の毛を濡らしてからタオルで軽く拭き、ドライヤーで髪を乾かして、少し濡れている状態にした。次にワックスを10円玉ほどの量を取り、手全体に馴染ませる。後頭部から頭頂部にかけてもみこみ、最後に手に残っているワックスで前髪を上げた。
鏡に映る自分を見る。夢じゃない。これが僕なんだ。
10分は格闘した。山口たちは毎朝こんな国家一大事業をしているのか。憎むべき相手だが、尊敬の念が生まれた。悔しい…明日からもこれをやるのか…大変だなー、と口に出してみたが、言葉とは裏腹にドキドキしている自分がいた。
振り返ると母さんがいて、かっこいいじゃん、と言われた。僕は「別にそんなんじゃないよ」と言って部屋に戻った。昨日も僕は何度も洗面所に向かった。足音を消して息を殺し、母さんに見つからないように移動するのはなんともスリルがあった。
着替えて朝食を食べ僕はいつもの時間に家を出た。どうやらワックスは服を着替えてからつけたほうがいいことを学んだ。肌着を着ると髪がくずれる。セットは奥が深い。
電車通学にも馴れてきた。だけど昨日までと世界の見え方が違っていた。
外は、顔を上げなくても意外と安全に歩けるものだ。黄色の点字ブロックと、白の白線、それに前の人の足元を見ればなんとかなる。みんなが僕のことを見て笑っている気がして、それがたまらなく苦痛だったから。だから僕はほとんどまわりを見ない。ひたすら道路を睨み付けていた。
たとえば曲がり角から車が出て来たり、たとえば上空から鉄骨が落ちてきたとしても、それはそれで受け入れようという心構えがあった。もういいじゃんって。
だけど今日は違った。オシャにいさんの言うとおり、僕は胸を張って歩いた。
玉創駅は思っていたよりもすごく新しい建物だった。こんなところに洋食屋があったんだ。ここが山口たちが行くカラオケかな?いつもの道が、いつもの道じゃなかった。空はこんなにも青くて、太陽はこんなにも眩しかったんだって。
猿タコスに着くとミチロウさんがにこにこと僕を見つめた。「似合ってんじゃん。」そう言って、お湯を沸かし始めた。
「今日はステージ②の草むら。次が魔王の城だからここで、できるだけ自信レベルを上げておきたい。」
「よろしくお願いします。」
「見た目の次に手っ取り早く解決できそうなのはコミュニケーション課題だね。」
「コミュニケーションですか?」
「弱みのところに、空気が読めないって書いてたよね?」
「はい、まぁ…そうですね。」
「じゃあその空気を読むという言葉の、空気の正体はなんでしょう?」
僕は唐突な質問に、うぐっとなったが、一呼吸置いてミチロウさんが言わんとしていることを考えた。
「空気は、なんていうか場の雰囲気みたいな…」
「いいよ。いい線いってるよ。じゃあもう少し踏み込んでみよう。川村くんが空気を読めないって感じるのはどんな時?」
「集団での行動ができないんです…みんなが盛り上がってるときに、僕だけ本を読んでるとかありますね…」
「それはどうして?」
「今までは一人で本を読むのが心地よかったから混じりたくなかったんです。誰にも邪魔されたくないと思っていて。」
「なるほど。」
「でも一度輪に入ろうと試してみました。そしたら会話の内容が全然わからなくて…わからないから僕は本の話をたくさんしました。そしたら、興味ないんだよ。空気読めよ、って言われて…僕は自分が空気読めない人間だということを初めて知りました。それからはもう人と関わるのは止めようって…」
「そっかー…ちなみに学校のみんなはどんな話をしてるの?」
「昨日見たテレビの話とか、Youtubeのあれが面白いとか。僕はそういうのまったく興味が無くて…」
「興味が無いから見ない。そして会話の内容がわからないから共通の会話ができない。なるほど。ちなみにテレビとかYoutubeとかは見たりするの?」
「見ないですね…」
「どうして本以外には手を出さないの?」
「…わからないです…なんて言うか、わからないけどずっと本しか読んできませんでした。」
「本以外に触れる機会はなかった?」
父さんにはたくさんのことを教わった。
昔「ムイミダス」というとても面白いコント番組があったこと。
ネパールにジャングルナイトツアーというのがあって、動物は一頭もおらずゾウの糞しか落ちていなかったこと。
「亀は意外と早く泳ぐ」という映画が面白いこと。
落語は志の輔から入れば間違いないということ。
高田渡の「コーヒーブルース」に出てくるかわいいあの子は店員ではなく、イノダで待ち合わせをしている子だということ。
たくさんたくさん話してくれた。
だけど僕は本だけに固執して、父さんの薦める本以外のものには手をつけなかった。なぜかはわからない。本こそがすべてだと思っていた。
あの頃は楽しかったな。
「…いや…まぁ、そんなことはなかったんですけど…」
「なるほどなるほど。ということは、今の川村くんはコミュニケーション課題が二つ。1.空気の読み方がわからない。2.本以外に興味がないので共通の話題を持てない、と…うん。よし、オッケー。ちなみにクラスの中で、テレビの会話とかを切り出すのは誰?」
「基本は山口のグループですね。」
「それが空気の主語なんだよ。」
「主語?どういうことですか?」
「空気を読めよ、というのはかなり意訳された言葉なんだ。これを丁寧に全訳すると、その場を支配している者が持って行きたい話の方向を理解して同調しろよ、という意味になる。」
「例えばどういうことですか?」
「例えば、山口くんはその場を盛り上げようと考え、昨日見たテレビの話を話題として選択した。すると山口くんグループのメンバーは、山口くんが場を盛り上げようとしていることを理解し、その行間を読みながら適切な場所で相槌やツッコミを入れて話を成立させるようにアシストしていく。そしてクラスのみんなはその山口くんの盛り上げたいという雰囲気を汲み取って笑っているんだ。つまり内容がわかっていなくても、その場の支配者が気持ちよく話せるように笑っていると理解できる。」
「空気を読むってそんな団体芸なんですか?」
「団体芸か。その表現面白いね。みんなそれを無意識にやってるんだ。」
「そんなに高度なこと、やっぱり僕にはできないです…」
「それがね、川村くんもやってるんだよ!」
「僕がですか?」
「仮にボクがこの場を支配していると仮定したときに、ボクが空気の正体はなんだ、という話を川村くんにする。このときボクはきみに、空気の正体を理解してほしいと考えている。それに対して、きみは適切な場所で相槌を打ち、質問をし、そして納得する。これはまさしく空気を読んだ行動なんだよ。」
「そう言われればたしかに…」
「場を支配する者は、時と場面で変わる。例えば授業が始まればその場を支配するのは教師だ。その教師は穏便に授業が終わればいいと思うタイプだとする。するとクラスのみんなは、その教師の考えを理解し、教師が気分を害さないように静かに授業を受ける。このとき騒ぐやつがいたら、教師は怒るだろうし、まわりのみんなもどうしてその雰囲気を妨害するのかと不快な気持ちになる。」
「うーん。理論としては理解できます。たしかにそうかもしれない。」
「今日さ、もし時間があったら夜こない?」
「夜ですか?」
「夜はうち焼酎バーなのね。もちろん川村くんにはお酒出せないんだけど、今日は金曜だからいろんな人が来るんだ。そこで空気を読む練習と、本以外にも面白いものがあることを知ってほしい。」
「そ、そんな急には無理ですよ…」
「オシャにいさんも来るよ!」
「ほんとですか!?」ミチロウさんは僕が食いつくポイントをよく理解している…ぐぐぅ…
「うまく話せなくてもいい。ただ話を聞くだけでもいい。もっと広い世界があることを知ってほしいんだ。」
「…わ、わかりました。夜、また来ます。」
「よし!じゃあ20時にここで待ち合わせよう!」
「よ、よろしくお願いします…」
僕は店を後にした。正直全然気乗りしなかった。人と話すことが苦手な僕が、たくさん人たちの場に紛れ込むなんてできるわけがない。話についていけなかったらどうしよう…キモいと思われたらどうしよう…不安しかなかった。
空気読めよ、というのは小学校高学年くらいから言われ続けていた。通知簿なんかにも、マイペースでまわりと足並みをそろえることが苦手なようです、と毎年書かれていたと思う。
身体が小さくて運動もできないうえに、コミュニケーションもうまくとれない僕は孤立するばかりだった。まわりは僕のことを不思議そうに見ていたが、僕からすればみんな同じ遊びや同じ内容の会話ができることのほうがはるかに不思議だった。
僕には本があって、そして父さんがいた。一人で本を読んでいても、それを話せる父さんがいるから何も問題は無かった。
だけど、父さんは死んだ。
転校先の学校では今までと打って変わって友達をつくろうと励んだ。父さんのように強い人間になるには、友達が必要だと思った。
今思えば僕は誰かに必要とされたかったのかもしれない。唯一の理解者がいなくなった今、僕を認めてくれる存在が欲しかったのかもしれない。
自分から挨拶をしてみた。
愛想よく笑ってみた。
体育を全力でやってみた。
部活にも入ってみた。
それでも友達はできなかった。話しかけてもうまく噛み合わない。話している内容がわからない。
ツケがまわってきたと思った。みんなが今まで当たり前のようにやってきたことを、僕はずっと避けてきた。同じ遊びや同じ会話をして、彼らは同調する訓練を積んできたんだ。
どんな本を読んでるって聞いても、みんなろくに読んでない。僕の読んできた千冊以上の知識は、学校生活を生き抜く上で何一つ意味を成さなかった。それは僕の人生が否定された瞬間だった。
転校して1ヶ月が経ち、僕は友達づくりを諦めた。
ある日の放課後、担任の体育教師に呼び出された。
「おぉよく来たな。まぁ座れよ。」
「は、はい…」
「川村さ、なんか困ってることとか無いか?」
「こ、困ってることですか?いや、別に…」
「あ、いや、なんていうかその、川村は友達いないだろ?なんでつくらないのかなーと思ってさ。」
「つ、つくらないんじゃなくて、つくれないんです。」
「つくれないって、そんなことないだろー。ほら、同じ趣味のやつとかさ!川村の趣味は何だ?」
「ほ、本です。」
「本かー。いいよな!先生も昔はたくさん読んだよ。本好きだったら山下とか気が合うんじゃないか?」
「か、彼が読んでるのは漫画で、ほ、本ではないです。」
「うーん、そうか…先生がお前くらいのときは野球部のみんなとわいわいしてたけどな。どうだ?野球部とか?」
「け、結構です。ぼ、僕が入るとみんなに迷惑かけちゃうし…」
「うーん。まぁたしかにそうかもなー…って冗談だよ冗談。とにかくさくさくっと友達つくってくれよー。転校してきたお前が一人でいるから、いじめられてるんじゃないかーって、他の先生も心配してるんだよー。な。頼むよー。」
ん?なんだこれ?
胃の奥底からふつふつと何かがはい上がってくる。自然と歯を食いしばる力が強くなる。怒り?今まで味わったことのない感覚。
僕はこの保身に走る筋肉馬鹿教師をみそくそに言い負かしたい衝動に駆られた。
「先生。質問していいですか?」
「もちろんだよ。どうした?」
「友達がいなきゃいけない理由ってなんですか?」
「それは友達がいないと人生つまらんだろ。」
「どうしてですか?友達がいなくても他に娯楽はあると思うんですが。先生は友達といることでしか楽しさを感じられないんですか?」
「そ、そんな早口でしゃべらなくても…どうした川村?」
「僕が質問する番です。僕の質問に答えてください。先生は友達といることでしか楽しさを感じられないんですか?」
「せ、先生だって運動したり、映画を見たり、本を読んだり、いろいろ楽しいことはあるさ。」
「最近何を読みましたか?」
「最近は…まぁ忙しくてあまり読めてないな。」
「一番好きな作品は何ですか?」
「一番?え、それは…やっぱり走れメロスが先生は一番好きだな。友情ってすばらしいよ。」
「太宰で他に何か読みましたか?」
「え?えぇと…あ、羅生門は読んだぞ!」
「それは芥川ですね。」
「…ま、間違っただけだ!とにかく本ばかり読んでないで、もっと学生生活を謳歌しろよ!さ、気をつけて帰れ。」
あ、わかった。僕のせいじゃないんだ。
教師がこれだから生徒も馬鹿なんだ。
僕が劣っているんじゃない。僕に友達ができないのはまわりが馬鹿すぎるからだ。
運動と友達こそが正義だと信じている筋肉馬鹿。テレビやお笑いの話題でしか盛り上がれない通俗馬鹿。色恋沙汰で一喜一憂する色欲馬鹿。ただ生きているだけで何もしていない無駄馬鹿。
ここは学校と言う名の馬鹿のるつぼだ。
そんなやつらに媚びへつらってまで仲良くなる必要はない。こっちが合わせても馬鹿なあいつらには理解できない。僕はただひたすらに本を読み続ければいいんだ。理解できないあいつらが悪いんだ。
強い人間が何なのかようやくわかった。
他人と関わることを生きがいとして、友達がいることでしか自分の人生を謳歌できないお花畑人間になることを否定し、絶対的な価値観の中で一人強く生きていける人間のことだ。
急にすっと楽になった。
友達なんていらなかったんだ。別に理解されなくてもいい。僕は僕で好きなことだけをやればいいんだ。
僕は人との関わりを必要最低限に留め、友達をつくることなく無事に中学を卒業した。
気がつけば夕方になっていた。リビングではパートから返ってきた母さんが夕飯の支度をしているんだろう。カレーのいいにおいがしていた。
僕は学生服を脱いで身支度を始めた。服は母さんが買ってくるものか、父さんが着ていたものしか持っていない。僕は父さんの着ていた黒の無地Tシャツとジーパンに着替えた。髪の毛をセットするとやっぱり別人が鏡に映っていて、まだ慣れない。
カレーが出る日は、父さんの月命日と決まっている。父さんはカレーが大好物だった。
母さんは仏壇にカレーを供え、線香に火を点ける。カレーのいい匂いを消し去る線香は、本当に父さんを喜ばせる気があるのか?と毎度疑問に思うが、皮肉にも遺影の父さんはものすごい笑顔だ。
カレーをかきこんでいると、母さんが話しかけてきた。
「最近どう?学校は楽しい?」
「…まぁまぁかな。」
「そう。まぁまぁか…」
「…あのさ、えっと…カレーおいしいね。」
「いつもと同じじゃない。なに?なんかあった?」
「いや…そういえばそうだね。いつも通りだね。」
「…そう言えば髪型どうしたの?」
「変?」
「ううん。すごく似合ってる。なんて言うか、若々しくなったというか。」
「いや、まだ16だからね。」
「いや、そうなんだけど…散髪代はどうしたの?お金あったの?」
「知り合いの美容師の人に切ってもらった。」
「…あんた知り合いに美容師なんていたの?」
「あ、えっと…」
猿タコスのことはなんとなく母さんには話さずにいた。もう少し、あと少しだけこのRPGが進めば母さんには伝えようと思っている。このぎこちない会話も、ほんとはもっとスムーズに話せればといつも思う。そのためにもいち早く次のステージにいく必要があった。
カレーを流し込み、洗い物を済ませた後、僕はちょっと出てくると伝えた。母さんは心配そうに、大丈夫?と聞いてきた。大丈夫かどうかは僕もわからなかったが、うん、とだけ答えて家を出た。
猿タコスに着くと、4人がカウンターに座ってミチロウさんと楽しそうに話していた。
「おぉ川村くんじゃん!」オシャにいさんが話しかけてくれた。
「こ、こんばんは…」
「髪型いいね!それにジャックパーセルも、黒のTシャツとすごい合ってるよ!かっこいいじゃん!」
「あの…ほんとありがとうございました。」
「ほら、こっちおいでよ!」
僕は言われるがままにカウンターに座らされた。それも僕が中心となり、右に2人、左に2人のフォーメーション。戦隊もので言えば僕が赤のポジション。幼稚園の頃、お遊戯会で空気という信じられない役に抜擢されたこの僕が…
左隣に座ったオシャにいさんが僕を紹介してくれる。
「これが川村くん。清水高校の1年生で、最近のミチロウさんのお気に入り。昨日おれが髪切ってあげたんだ!」
「は、はじめまして…あの川村です。清水の1年です。昨日オシャにいさんに髪切ってもらって…」
「いや聞いた聞いた!おれニワトリちゃうから!そんなすぐ忘れへんから!」
かんさいべんだ……関西弁だ!!初めて生で見る関西人が、僕の右隣に座っている。何に対してそんなに怒ってるのかわからないが猛烈な勢いで話している。すごい人種だ…
「あ、ほんでおれ宇野っていいます。芸人やってますー。」
「芸人さん…すごいですね!」
「いや、こいつは別にすごいことあらへんよ。まだ売れてへんし。」
激流を制するかのように、宇野さんの右隣からまた関西人が現れた。
「お前が言うな!あ、こっちのおもんない方が相方の谷澤。」
「でもネタ書いてるのはオレやから、そのおもんない方に飯食わせてもろてる方が宇野。今日はそれだけでも覚えて帰ってください。」
「やかましいわ!」
宇野さんと谷澤さんは息がぴったりだった。僕はこのコンビ芸に、素直に感動していた。
「す、すごい…」
「いや、すごいちゃうねん。おもろいって言うてほしいねん。」
「あ、すいません…」
「いや、だからすいませんちゃうねん。おもろい言うてほしいねん。」
「…お、おもろい…」
「コピペすな!独自の表現せえ!」
みんなの笑い声が上がる。なるほど。この場を支配しているのは宇野さんだ。僕はミチロウさんを見つめて右隣を指差し、ですよね?という顔をした。
ミチロウさんは小さくうなづき、話してみろと言わんばかりに、アゴをくいくいと宇野さんのほうに向けた。
「あ、あの…ウノさんってなんで芸人になろうと思ったんですか?」
「鋭角に真面目!鋭く真面目な質問するやん。芸人になった理由?そんなん決まってるやろ。芸人が一番かっこええからや!」
「そういうんは売れてから言わなダサすぎるやろ…」
「だ・ま・らっ・しゃ・い。ええか、芸人たるもの常に夢と笑いを与えなあかんねや。川村言うたっけ?きみはなんかなりたいもんとかあるんか?」
「ぼ、僕…あの、今いじめられてまして…で、いじめられない人間になりたくて…」
「なんやいじめられてんか。おれと一緒やん!おれも高校までそれはそれはズタボロにいじめられててさ。」
「宇野さんがですか?」
「うちめちゃめちゃ貧乏やってさ。おかず無いときとかごはんに水かけて流し込んで食うてたもん…いや、これほんまなんやて!ほんでそんな貧乏やから、やれ靴がボロボロや、やれ学ランがおさがりや、やれ弁当が貧しいやら、ごっついじめられてたんよ。」
「宇野…お前も苦労したんやな…泣けてくるわ…」
「いや、いじめてたんお前や。全いじめがお前発信や!」
「そんな時代も…ありましたねえ…」
「しみじみーちゃうねん。昔はやんちゃしたけど今はガキもできて幸せな家庭築いてますー顔すな!」
「え、谷澤さんがいじめてたんですか?で、そんないじめっことコンビ組んでるんですか」
「せやで。それも谷澤からコンビ組んでくれってお願いされたからな。」
「よく許しましたね。ど、どうやっていじめは収まったんですか?」
「一回だけ勇気出してみたんや。ただそれだけ。」
「どういうことですか?」
「ずっといじめられてて、このままじゃあかんなーと思ててさ。あれは高2の時かな?文化祭でお笑いコンテストがあって、一人で漫談したんよ。おれいじめられてるけど、お笑いやったらこいつらより100倍おもろい自信があってさ。で、どうせやったらいじめられてることネタにして、告発しながら笑いとったろ思て。」
「どうなったんですか?」
「これがちんちんにスベッた。しゃべりながらおれ死ぬんちゃうかな言うくらいスベッた。たぶんやけど、おれがいじめられてることをみんな知ってたから、そんないじめられっ子が話すことで素直に笑われへんと言うか、なんとなくそういう空気があったんやと思う。でも話はここで終わらへんねん。」
「どうなったんですか?」
「ちんちんにスベッた言うたけど、実は一人だけ笑てくれる人がおった。それがどついたるねんの大谷さんっていう芸人さんやってさ。ネタが終わったらその人がめちゃめちゃ拍手してくれてん。ほならそれを見てたまわりのやつらが大谷さんに気づいて、芸人さんが拍手してるねんからすごいネタなんやー思て、まわりのやつらも拍手し始めてさ。ネタは全くウケてへんのに、終わりにごっつ拍手されるっていう世にも奇妙なことが起こった。」
「それでそれで?」
「そしたらよ。谷澤は実はお笑いが大好きで、しかも大谷さんの大ファンやった。ネタが終わるや否や、こいつは大谷さんとこにぶわーっと駆け寄ってきて、サインください言うてさ。おれはなんか腹立つから、こいつにいじめられてるんです!って告げ口したんよ。そしたら大谷さんが、お前らコンビ組め。いじめっ子といじめられっ子の漫才見てみたいわ、って言うてきてさ。」
「で、どうしたんですか?」
「断ったわ。全力でNOを突きつけたった。そしたら谷澤は何を思ったかその場でおれに土下座してきてさ。コンビ組んでくださいって。大谷さんそれ見て爆笑してさ。それにつられてまわりも爆笑してさ。結果、どんな審査かわからんけどその年のお笑いコンテストでおれ優勝してもうたんよ。で、その流れでまぁええかと思て谷澤とコンビ組んでいじめが終わり、今に至るという。」
「これは情熱大陸で話せるなー。」
「やかましいわ!反省せえ!」
宇野さんは芸人さんというだけあって、ものすごく話がうまかった。ほんとは暗い話なのに、笑わせたり感動させたり、最後にはちゃんとオチまでが用意されていた。僕は完全に引き込まれていた。普段テレビを見ないからわからないけど、この人たちは絶対売れるなと思った。
「なんてコンビ名なんですか?」
「宇野です。」
「谷澤です。」
「「二人合わせてド・ゲザーズです。」」
絶対売れないなと僕は思った。
ずっと沈黙を守っていたミチロウさんが、タバコの火を消してやっと口を開いた。
「宇野くん。川村くんと話してみてどうだった?」
「どうだった?うーん。ようわからんけど話しやすかったすね。ええ客でした。」
「そう。川村くんね、いいタイミングで相槌うってくれるし、すごい興味もって聞いてくれるんだよ。」
「ぼ、僕がですか?」
「その、ぼ、僕がっていうのはなんともいじめられっ子ぽいけども、でも川村はなんていうか、見た目も会話の感じもいじめられっ子ぽくないかな。」
「ほんとですか??」
「お、おぉ…圧すごいな…」
「ここまではやっぱり問題ない。川村くんは空気を読むスキルがある。あとはあれだけだね。」
「あれってなんすか?」
「ちょっと宇野くんさ、川村くんに好きなもの聞いてみて。」
「川村はなんか好きなもんとかあるの?」
「本です…」
「他は?」
「他は…なにもないですね…」
「なんでや?」
「なんでって…それは…その、本以外に興味はないから…」
「もったいないなー…もったいない!おれは頭も悪いし、いじめについてもなんもアドバイスでけへんけど、これだけは言うといたるわ。いろんなもんを食うてみい。手当たり次第はじっこだけ食うていってもええし、がぶっと食うてみてまずかったら吐き出してもええし。とにかくいろんなもんを食うてみ!」
ミチロウさんはにこっと笑った。
「宇野くんの伝え方はさておき、言ってることはほんとその通りだと思う。今日朝来たときに、テレビやYoutubeには興味がないって言ってたけど、興味があるかないかは一度経験してからでいいんじゃないかな。そもそも作家さんだって本だけを読んでるんじゃない。旅したり、音楽を聴いたり、お酒を飲んだり。いろんな経験をして醸成されたものを、たまたま本っていう手段で表現してるんだ。」
「言ってることは…わかります…」
「川村くんの食わず嫌いの根っこにあるものを考えてみたんだ。そしたらひとつの仮説にたどり着いた。邪推かもしれないんだけど、川村くんは怖れている?」
「怖れ?どういうことですか?」
「運動が苦手で、コミュニケーションもうまくとれないから本だけを読み続けてきた。そんな自分を自分たらしめているのは読書量で、自分からそれをとったら何も残らないと思っている。下手に他のことに手を出すと、まわりの人間はそれを積み上げてきているから自分が一番下になってしまう。それだったら本だけを知ってる世界に生きよう。本の世界の中で生き続ければ一から頑張る必要もない。誰にも馬鹿にされない。」
ぺきぺきと自分の中の、何かが音を立てて崩れていく。
「自分の知っているもの、培ってきたものを素晴らしいと思いたいのはよくわかる。だけどそれだけがすべてと思うのは、逃げだ。新しいものを知るのが怖い。もう自分はこれでいいって、そう決め込むことで楽なほうにいってる。」
ミチロウさんの言うとおりだ。僕は怖かったんだ。絶対的な価値観の中に閉じこもって、外の世界を知ろうとしなかった。興味をもたないようにしていた。
僕が何も言えずに黙っていると、ミチロウさんが優しく話しかけてくれた。
「宇野くんと話してみて、芸人さんって面白いと思わなかった?」
「…あの…正直、すごいなって思いました。こんなに面白く話せる人がいるんだって。」
「川村くんが知っている世界なんてほんとのほんとに小さいんだよ。だからもっといろんなものを見て、経験して、感じてほしい。」
「…ぼく、僕もっといろんなことが知りたいです。」
ミチロウさんにもっと早く出会っていれば、と心の底から思った。
いや、違う。父さんはずっといろんなことを教えてくれてたんだ。遠ざけていたのは僕だ。
「二つのコミュニケーション課題はクリアできそうだね。空気を読むスキルは身に付けたし。共通の話題を持てないという課題も、根本原因である本以外に興味をもつことへの怖れを克服できたと。あ、あともう一つコミュニケーションで大事なことがある。」
「なんですか?」
「空気を読むのは、こだわりのないものにだけ。」
「こだわりのないもの?」
「なんでもかんでも空気を読んでおけばいいってことではない。ほんとに川村くんが譲れないものに関しては空気は読まなくてもいい。きちんとそこで川村くんの意見を言えばいいんだ。」
「え、いや…なんか急に難しいです…」
「いじめっこたちが川村くんをいじめようとする。川村くんが空気を読むならば、そのまま同調していじめを受け入れるしかない。でもそうじゃないでしょ?」
「いじめは…もう嫌ですね…」
「空気を読むことが日本では美徳とされているから、すべてにNOを言うのは、僕は違うと思う。かといってすべてにYESを言うのも違うと思う。自分の譲れないものが何なのかを知り、どうでもいいことにはYES。譲れないものにはNO。それがわかれば川村くんは変われる。」
僕はまた泣きそうになっていた。すると、宇野さんが空気を読んで、ほな練習しよか、とよくわからない提案をしてきた。
「おい川村、宿題見せてくれや。」
「え、あ。もう始まってるんですか?」
「おい、おれだけ恥ずかしいやろ。はよのっかれや。おい川村、宿題見せてくれや。」
「あぁ…いいですよ。」
「おぉー。宿題見せるんは別にこだわらんちゅうことやな。ほな次。おい川村、パン買ってこいよ。」
「いいですよ。」
「あ、そこもセーフ?ほな、これはさすがにあれやろ。おい川村、殴らせろや。」
「うーん…いいよ…」
「キリストか!お前はイエスだけにYESか!」
今日初めて猿タコスが静かになった。
「もうええわ。おれだけすべってアホらしいし、もうこれ終わろ。」
「いや、もうちょっとだけやらせてください!」
「…ん?今のは?NOとしてカウントしてええんかな?」
みんながわーっと盛り上がった。宇野さんは、川村お前は笑いのセンスがあるわ、と褒めてくれた。他人と話すことってこんなにも楽しいことなんだ。本以外にも面白いことって山ほどあるんだ。世界は広い。僕は重大な真実を知った気になった。
空気を読むとは
・誰がその場の支配者かを理解する
・その支配者が持って行きたい話の方向を理解する
・支配者が気持ちよく話せるように同調する
・ただし自分のこだわりがないものにだけ同調する
・こだわりのあるものに抵触するときはNOを言う
僕はぼうけんのしょにセーブした。
するとミチロウさんがパソコンを操作し始めた。まさか、またあれをやるのか?昨日と同じく、店内の音楽が止まりる。そしてあの音楽が鳴る。パパパーンパンパッパーン。
「勇者川村は、レベルが5になった。奥義「エアーリーディング」と、装備「インタレストの心」を手に入れた」
僕と宇野さんは顔を見合わせた。宇野さんは表面張力まで物言いたげ顔をしていたが、それを上回るミチロウさんのドヤ顔を前に、抜きかけた剣を鞘に収めた。
ステージ②酒場(未クリア)
ー自信レベルが5になった
ー宇野さんがパーティに加わった
ー奥義「エアーリーディング」を身に付けた
ー装備「インタレストの心」を手に入れた
僕はぼうけんのしょにセーブした。
「いつになったらあたしの出番なのかな?」
ダンッとグラスをカウンターに叩きつける音がして、僕は音の出所に目を向けた。そうだ。ここにはもう一人いたんだ。オシャにいさんの隣にはきれいな女性が座っていた。僕は反射的に目を背けた。