9月12日 水曜日
僕は制服を着ていつもの時間に家を出た。靴箱から中学の時に履いていた、機能性だけの黒の運動靴を取り出した。いつも胃が痛くなる玄関。だけど今日は痛くならなかった。その代わり、僕の心臓はトクトクトクと早い鼓動を刻んでいた。どこかで味わったことのある感情。だけど思い出せない感情。
切符を買う。電車に乗り込む。会社に向かうサラリーマン。学校に向かう学生。みんなそれぞれがいつもの場所に向かう。僕が向かうべき場所は…
学校の人間に会うのが嫌だった僕は、環状線を無駄に二周した。その間僕は、昨日ミチロウさんから出された問題を考えていた。「川村くんはどんな人間になりたい?」
時計を見ると10時をまわっていた。答えが出ぬまま電車を降りる。考えながら歩く道のり。心臓がトクトクしている。ん?何かが変わることに期待している?
やめろ。落ち着け。期待なんてするな。信じるな。どうせ何も変わらない。何も待ってはいない。鎮めろ。僕みたいな者は。僕みたいな者は。僕みたいな者は。僕みたいな者は。僕みたいな者は。
少し落ち着いた。僕はいつもの、僕みたいな者になっていた。これでいい。
猿タコスに着くと、ミチロウさんは店の前に立っていた。
「おはよう。」
「お、おは、おはようございます…」
「学校?コーヒー?」
「あ、えぇ、あの…コーヒーを…」
ミチロウさんはにこっと笑って、店に入っていった。僕はもう一度、僕みたいな者、と唱えて、猿タコスの扉を開けた。
昨日と違う曲がかかっていた。
「これもうちに遊びに来てくれるバンドの曲なんだ。川村くんは音楽聴くかい?」
「い、いや、全然…」
頭の中では言葉がたくさん溢れているのに、どうして人を前にするとうまくしゃべれないんだろう。
「今日はなにしましょ。」
「いつもので。」
言ってからおかしなことに気づいた。昨日初めて来たばかりじゃないか。なのにいつものでって…顔が熱を帯びていることに気づく。は、恥ずかしい…死にたい…
「いつものね。」
僕はぐっと俯いていたのでミチロウさんの顔をよく見ることができなかったが、たぶんにこっとしていた。
銀のやかんからカップにお湯が流し込まれる。カップをあたためてお湯を戻し、サイフォンでコーヒーをゆっくりと注ぐ。ミチロウさんはこの動作を今まで何回やってきたのだろうか。その動作に無駄は無く、呼吸をするかのような手つきで一杯のコーヒーができた。
「どうぞ。」
「ど、どうも。」
砂糖を二杯、クリームを垂らす。一口飲むとやはり美味しかった。美味しい。どこか懐かしいこの味。
「あ、あの…」
驚いたことに僕から話しかけていた。気を許してしまった。失敗だ…でも話しかけた手前何か話さなければいけない。
「ぼ、僕、あの…き、昨日はありがとうございました。」
「とんでもない。」
沈黙が流れる。店内には、よくわからない曲が流れていた。「若者よ、さぁパンケーキほじくれ。」なんだこれ。僕はくすすと、気持ち悪い笑い方をしてしまった。
「どれじんてえぜって曲なんだ。いったい全体どれがジンテーゼなんだって曲。ジンテーゼってわかる?」
「いえ…」
「簡単に言うと、ある考え方とそれに対立する考え方があったときに、それらを共存させる新たな考え方のこと。ほとんどのことは、矛盾を含みながら存在してるのかもしれないね。」
「ど、どういうことですか?」
「僕の理解で言うと、例えば、人間には生きている意味がある、って考え方と、いや、人間が生きる意味なんて無いよ、って考え方がある。でもどちらが正解なんてことはない。だから、良い感じに人生が進んでる時は、人生には意味があるぜウォーッて思えばいいし、人生がうまくいかない時は、別に人生に意味なんてないし気楽に生きればいいか、って思えばいい。両者の矛盾を抱えながら、楽しく、気持ちよく、適当に、生きていけばいいんじゃないかってボクは思うんだ。それがボクの人生のコンセプトでこれはちょっと話が長くなるんだけど…って、え、どしたどした?」
あれ、ミチロウさんの顔がぐにゃぐにゃになっていく。困ってる?どんどんどんどんぐにゃっていく。なんだこれは。
僕は知らないうちに泣いていた。涙を流すなんてあの時以来だ。涙はなかなか止まらなかった。それはさらさらとしていて、出せば出すだけ、何か身体の奥底からどろっとした汚泥が流れていくような気がした。だけどすべては流れない。すべてが流れることはない。
曲が変わる頃に、やっとこさ僕の涙は止まった。
「ぼ、僕の話、聞いてもらってもいいですか?」
ミチロウさんはにこっと笑ってくれた。
拙い言葉だった。頭の中にある言葉が声帯を通るときにごそっと抜け落ちる。それでも僕は必死にしゃべる。自分がダメな人間であること。自分がいじめられていること。そして昨日、死のうと思っていたこと。
流れていた曲はいつしか止まっていた。
「ぼ、僕、どうしたらいいですかね?」
「ボクにヘルプを求めている?」
「は、はい…」
そんな直球で言われると、ぐぅ…ってなる。
「どういうヘルプを求めてる?」
「も、もういじめられたくないんです…強い人間にならなくちゃいけないんです。」
「強い人間ってのはどうして?」
「それは…まぁ…」
「じゃあまた話したくなったらでいいや。で、ボクに求めてるのは、いじめられないようにするにはどうすればいいかアドバイスがほしいということでいいかな?」
「は、はい…」
「なるほど。それは、いじめられっ子じゃなくなりたいってこと?いじめっ子をこらしめたい?友達がほしい?」
「い、いじめっ子をこらしめたら、いじめがなくなるし、友達もできるんじゃないですか?」
「なるほど、それも一理ある。だけど本当にそうかな?例えばいじめっ子に何らかの社会的制裁を与える。一時的にいじめはなくなるかもしれない。だけどひょっとすると、いじめっ子を不憫に思う人間が出てくるかもしれない。それに川村くん自体は何も変わっていないからたぶん、いやきっとまた別の人にいじめられる。」
「じゃ、じゃあ僕はどうしたらいいんですか?」
「川村くん自体が変わることが大事なんじゃないかな。」
「い、いじめられるほうが悪いってことですか?」
「違う。けど違わない。いじめは最低だと思うよ。人の人格を踏みにじり、人を死にいたらしめることだってありうる。だけど、いじめは絶対になくならない。ちなみにいじめって学生生活に限られた事象だと思う?」
「は、はい…」
「悲しいことに、いじめは学生の間だけではない。大人になっても、社会人になっても、老人になったっていじめというのは存在する。ちなみに、いじめられっ子は一生いじめられるケースが多い。転校する。卒業する。環境が変わったところで、その子自身が変わっていなければ、ほとんどのケースで再びいじめられる。」
「ど、どうして?」
「いじめられる人には特徴がある。そしてその特徴は全世界、全世代でほとんど共通している。だから環境が変わっても、その人自身が変わっていなければ、ずっといじめられっ子のままなんだ。」
「あ、あの、ミチロウさんの言ういじめってなんですか?」
「うーん…有利な立場の人間が、愛なくして不利な立場の人間の心を踏みにじることだと思う。」
「こ、心ですか?」
「そう、心。物理的暴力や、恫喝・無視・辱めなどの精神的暴力。金銭搾取や、器物破損など、いじめにはいろんなレパートリーがある。でもそれらは枝葉の話で、その本質は心を壊す行為なんだと思う。例えばかつあげされてお金を盗られたとする。その行為によって感じるのは、きっと悔しさだったり、反抗できなかった自分への情けなさだったり、親への申し訳なさだったりするんじゃないかな?そうして心が傷つく。」
「た、たしかに…」
「お金なんてバイトして稼げばいい。物理的暴力も、身体は自然治癒で勝手に治る。だけど心はなかなか治らない。気力がある限り、ほとんどのことは実現できるのに、その気力生成センターをぶっ壊されると。人は何もできなくなる。」
「ぼ、僕は、僕はどうすればいいですか?」
「昨日川村くんに聞いたよね?人はなんのために生きてるか。」
「…考えました。すごく。でもなんのために生きてるかなんてわからないです。ていうか…」
「川村くんはきっと、どうしたらいじめられなくなるかを早く知りたいと思ってるだろうけど、この話が一番の本質だと思うから頑張って聞いてほしい。」
「は、はい…」
この人はなんでもお見通しだ。
「人はなんのために生きてるか。自分で聞いておいてなんなんだけど、なんのためにとか、生きる意味なんて、ほんとは無いと思うんだ。」
「無いんですか?」
「生物としての人間は、子孫を残すという目的があるのかもしれない。でも人としての人間には生きる意味なんてない。言ってしまえば、生まれてきたついでに生きているんじゃないかと思う。」
「つ、ついで…」
「ボクはそう思う。でもついでに生きるなら、どうせなら幸せに生きたほうがいいと思う。それがボクの思う、なんのために生きるか、の答えだ。」
「ミ、ミチロウさんのいう幸せって何ですか?」
「これはちょっと屁理屈かもしれないけど、今置かれている状態が幸せって言い切れれば、幸せだと思う。」
「し、幸せに生きるにはどうしたらいいんですか?友達ですか?お金ですか?」
「友達やお金も大事だと思う。だけどそれらは一つの要素でしかない。それらが不足していても幸せにはなれる。」
「じゃあどうすれば?」
「自信を持った人間になること。」
「自信…ですか?」
「そう、自信。言い換えれば幸せだって言い切る力。今の川村くんは幸せかい?」
「し、幸せでは…ないです。」
「自分に自信はあるかい?」
「ありません…」
「自信を持つことができれば川村くんは変われる。きみの人生はきっと幸せなものになると思う。そして…」
「そして?」
「いじめられっ子に共通する要素は、幸か不幸か、自信が不足していることだ。つまり自信を持った人間になれば、いじめもなくなる。」
「本当ですか?」
「本当。」
「…か、考えさせてください…ちょっといろいろ急すぎて…考えたいです…」
ミチロウさんは、それまでにこやかに話していたが、きりっと真面目な表情になった。
「川村くん。あえて強めに言うよ。考えるって何を?どういう条件を満たせば判断できるの?」
「え、いや、それは…」
「何を考えるかもわからずとりあえず考えるの?判断材料はいつそろうの?100%にならないと判断できないかい?そうこうしているうちにチャンスを失うんだよ。勝負できる人間っていうのは、言い換えれば決断できる人間だ。」
こんなに圧迫されると僕は頭が回らなくなる。もうわからない。なにをどうしたらいいのかわからない。
「川村くんには選択肢がある。ここでいじめに立ち向かうか、逃げるか。」
「…逃げたらどうなりますか?」
「逃げることが悪いとは言わない。いじめが発覚したら学校を休みなさい、といじめの本にはだいたい書いてある。あれの本質は気力を回復することにある。で、気力が回復してきた頃にまた学校に行く。またいじめられ、気力がなくなる。その繰り返し。その連鎖から抜け出すには…」
「じ、自信をつけること?」
「正解!このステップを飛ばして、いじめという事象だけを解決してもなんの意味も無い。もうわかるよね?」
「…自信のない人間はまたいじめられる。」
「わかってきたね!要は自信を回復できれば、別に今いじめに立ち向かわなくてもいいとも思う。でもそれは問題を先送りにしてるだけで、いつかは自分に向き合う日が必ず来る。時間が経てばそれだけ腰が重くなる。且つ、その日が来るまできみは人間不信に陥ったまま、ビクビクしながら生きていくことになる。その時川村くんは言うだろう。あの時いじめに立ち向かっておけばよかったって。それに…」
「それに?」
「川村くんは今一人じゃない。きみにはボクがいる。」
みんなよりも劣っている僕は学校でも一人でいることが多かった。だけどそれは苦痛なことではなくて、一人で本を読むほうがよっぽど楽しかった。それに僕は一人じゃなかった。父さんがいる。本の話をできる父さんがいる。
母さんは友達がいない僕を異様に心配した。そんな母さんのことを僕はあまり好きじゃなかった。なにかにつけて、学校は楽しい?友達はいる?と聞いてくる母さんが、何をそんなに心配しているのかが当時の僕には理解できなかった。そんなに友達がいないとダメなのか?
たしか小4の時だったか。僕はいつもの喫茶店で父さんに質問してみた。
「父さんさ、友達っている?」
「たくさんいるよ。会社に入ってからは友達って呼べるやつはそんなにできなかったけど、学生時代はたくさん友達がいて、今でもたまに集まるよ。」
「そっか…」
「どうした?友達がいなくて悩んでるのか?」
「うーん…なんていうか、別にいなくても僕は困らないんだ。だけど、友達がいないと母さんが心配するから。なんで友達がいないとダメなのか知りたかっただけ。」
「友達がいないとダメな理由か。うーん…まぁ結論から言うと、友達がいなくてもダメではない。だけどいたほうが楽しい、というのが父さんの意見かな。」
「どういうこと?」
「俊樹には心を許して話ができる人はいるかい?」
「父さん…かな。」
「ありがとう。それは素直に嬉しいよ。じゃあ父さん以外は?」
「うーん。母さんには正直気を遣うし、学校には誰もいないかな。普通に会話はできるけど、心を許したりはできないよ。」
「それはどうして?」
「僕はみんなみたいになれない。身体も小さいし、運動もできないから、だからずっと本を読んでる。本のことなんてどうせ話してもわかんないだろうし、ずっと一緒にいなきゃいけないのも嫌だし。」
「なるほど。父さんのせいでもあるんだけど、たしかに俊樹はそのへんの大人よりもたくさん本を読んでるから話は合わないかもな…」
「だから友達なんて別にいらないんだ。」
「ほんとにそうかな?共通の話題で盛り上がれる人で、且つずっと一緒にいる人を友達だと俊樹は思うかい?」
「うん。みんなドッジボールしたり、ゲームの話したり、気が合うもん同士で仲良くしてるし。トイレ行くときもみんな一緒に行くし。」
「それも一理あるかもしれないな…うーん…昔さぁ、父さんには小説家になる夢があったんだ。」
「ほんとに?」
「大学を卒業して一度は就職したんだけど、やっぱり本が書きたいなと思って、それで仕事を辞めたんだ。そしたら今まで仲良かった会社の人とか父さんに見向きもしなくなってさ。毎日のように顔を合わせて、毎週のように遊びに行ってた人たちだったのに。」
「最低だね…」
「彼らは父さんが同じ会社に所属しているうちの一人としか思っていなかったんだと思う。まぁ会社ってそういうもんなのかもしれない。そしたら、高校からずっと仲の良かったやつが急に連絡してきたんだ。この喫茶店にも二人でよく来たな。」
「それでそれで?」
「そいつとは数年連絡を取っていなかったのに、風の噂で父さんが小説家を目指してることを聞きつけたそうで、その夢応援するよ、って言ってくれたんだ。」
「いい人だね。」
「だけど、いざ小説家になるぞーと思っても、何を書いていいかわからなかった。それで父さんは貯金を食いつぶしながら毎日だらだら過ごしてたんだ。」
「終わってるね…」
「ええそれはもう…ほんと腐ってましたよ。腐れ神でしたよ…母さんにもそれで一度フラれてるからな…ってそんな話はどうでもよくてだな…その友達は父さんに対してめちゃくちゃ怒ってくれたんだ。」
「怒られたの?」
「別にそいつに迷惑もかけてないのに、そいつは本気で怒ってくれた。そしてどんな物語にすべきか一緒に考えてくれたんだ。父さんはそのとき思った。友達ってこういうことなのかなって。」
「どういうこと?」
「楽しいときだけ一緒に喜んでくれるんじゃなくて、うまくいかないときだけ怒るんじゃなくて、どんな父さんでも好きでい続けてくれる相手。それが友達なんだって。だから、ずっと一緒にいるのが友達じゃないし、共通の話題をするのも友達じゃない。どんな状態でも見捨てず、自分を肯定し続けてくれる存在が友達なんだって。父さんはそう思う。」
「うーん…やっぱりよくわかんないよ。」
「別に無理してつくる必要は無いけど、いつか俊樹にもそんな友達ができるといいな!」
「あ、そうだ。俊樹も本書いてみたらどうだ?たくさん本を読んでるんだから、一本くらい書けるかもよ?」
「無理だよ無理。父さんでそんなに苦労したんだから僕にはとうてい…」
「やってみなきゃわからないだろ?別に小説家になれ、とかじゃなくてさ。何も気負わず書いてみたらいいんじゃないか?父さん読んでみたいよ。」
「ほんとに読んでみたい?馬鹿にしない?」
「馬鹿になんてしないよ。父さんのために書いてくれよ。」
「うーん…わかった。じゃあ書いてみる!」
「よし!そうと決まったら今から文房具屋に行こう。ノートとペンを買ってやるよ。」
「…ペンは父さんが使ってたやつがいいな!」
「え?あぁ、別にいいけど。」
「やったー!じゃあいこ!ノート買いにいこ!」
「おう、いこうか。」
「あ、そうだ…で、結局小説はどうなったの?」
「書いたよ。で、賞に応募した。」
「結果は?」
「ダメダメ。二次選考にも通過せずに落ちちゃった。そしたらなんか踏ん切りがついてさ。で、今の会社に就職して、母さんとやり直して、結婚して、俊樹が生まれて、みたいな。」
「やっぱりペンもらうの止めようかな…」
「おい!もうだめ。絶対父さんのを使わせる。」
「だってそのペン使ったら書けなさそうじゃんー。」
「うるせえ!」
「…で、その友達とは今でも会うの?」
「会うよ。今は海外にいるみたいでなかなか会えないけどな。」
「いつか会ってみたいな。父さんの友達。」
「また紹介するよ!」
その友達と会うことはなかった。そして僕に友達ができることもなかった。
「友達…できますかね?ぼ、僕でもいじめに…立ち向かえますかね…」
「それは川村くん次第だよ。さぁどうする?」
「ぼ、僕…変わりたいです…助けて…ください!」
「川村くんがんばろう。川村くんは大丈夫。川村くんならきっとうまくいく。」
僕は再び泣いた。一日に二度も涙を流すなんて、生まれて初めてだった。ミチロウさんはにこっと笑っていた。僕みたいな者の話を聞いてくれる人がいる。僕みたいな者のために力を貸してくれる人間がいる。今の僕は一人じゃなかった。僕みたいな者ではなかった。
その日は夕方に店を出た。明日も同じ時間に来ると約束をして。
家に帰ると、僕はミチロウさんからもらった一冊のノートを取り出した。表紙には「ぼうけんのしょ」と書かれていて、意味を尋ねると、明日説明するね、と言われた。”昨日”死のうと思っていた人間に”明日”がある。わからないもんだな。もうどうなってもいい。ミチロウさんを信じて当たって砕けろだ。ダメだったときは…そのときは…その時考えよう。
ノートをめくると、でかでかとこう書かれていた。
【ゴール】
いじめを倒し、川村くんが自信を持っている状態
いじめを倒すか…僕の力でいじめに立ち向かう。できるのか…?だめだだめだ。信じろ。信じるって決めただろ。
その勢いで僕は2ページ目を開き、ミチロウさんから出された課題に対する解答を書き込んでいった。
【現状分析】
・自分の強み(他の生徒と比較したときに勝っていると思うところ)
→読書量
・自分の弱み(他のいじめられっ子と比較したときの共通点)
→友達がいない
→見た目が不気味
→運動神経がない
→はきはきとしゃべれない
→おどおどしている
→自分の意見を言えない
→空気を読んだ行動ができない。
・いじめについて(内容、時期、きっかけ)
→入学して1ヶ月以内にまわりは着々と友達をつくっていった。僕はその間一人で本を読んで過ごしていた。いじめのきっかけは今思うと、GW前に大原の喫煙を目撃したことかもしれない。
→5月:GWが明けた頃無視が始まる。僕をいない者としてプリントを飛ばしてまわされる。机を離される。授業中にちぎった消しゴムやプリントを丸めた物を投げられる。
→6月:「死ね」「キモい」などの悪口が始まる。「キモ蟲」というあだ名をつけられる。僕が触ったものは汚れたものとして扱われる。すれ違い様に肩をぶつけられたり、足をかけられたりする。上履きを隠されるようになる。教科書に落書きをされる。
→7月:何度かパシらされるが、買ってくるのが遅かったため殴られる。パシりもクビになる。お金を貸してくれと言われ、4000円をとられる(返ってきてない)。
→夏休み:学校の人間と関わらなかったので特になし。
→9月:「まだ学校に来てるのか」と言われカバンを窓の外に捨てられる。放課後トイレで囲まれ、キモいという理由で殴られる。
→昨日:自転車を壊される、本に落書きをされる。靴を隠される。
・頼れる先生はいるか
→学校で話したことがあるのは用務員のおじさんくらいで、それ以外は関わりがない。担任教師の森川は何度かいじめを目撃しているが、「ほどほどにしとけよ」と言うだけで何もしてくれなかった。教頭も上履きを隠されている姿を見ていたが特に何も声をかけてくれなかった。
【ターゲット分析】
・いじめっ子はどんなグループか(人数、組織図、グループメンバーそれぞれの特徴、会話している内容)
→山口グループ。5人組。会話の内容はラグビー、女子関係、下ネタ、お笑いがほとんど。
→リーダー:山口将大。ラグビー部で1年ながらレギュラーになっており、次期キャプテンと言われている。身体が大きくケンカも強い。クラスの人気者で、授業中にボケたりするとまわりの人間も先生もよく笑う。いじめの指揮をとっているが自分で手を下すことはほとんどない。
→実行犯:大原敦。山口が指示を出し大原が実際に手を出してくる。帰宅部で、放課後はよくカラオケに行くらしい。ちゃらちゃらとした外見で髪を染めピアスを開けており、教師からも目をつけられている。隠れてタバコを吸っている。
→他:松本、寺田、内村:大原にくっついて攻撃してくる。3人でいるときは攻撃してこない。見た目もやんちゃという感じではなく、いたって普通。内村は動きの遅い僕に代わってたまにパシられている。
一晩かけて僕はできるだけ具体的に書き込んだ。いじめの内容を書いているときはかなり苦しかった。
こうしてまとめると、入学してからずっといじめられている。中学も友達はいなかったが、いじめられたことはなかった。だからいじめられていることにも最初は気がつかなかった。だけど、日に日にその違和感が実態を伴い、僕の心はかさついていった。
辛いという感覚がしばらくして麻痺しはじめ、これはもう仕方が無いことなんだと諦め、我慢すればいつか収まると信じていた。この一週間が終われば。来月になれば。新学期になれば。それでもいじめは終わらなかった。
僕はその夜夢を見た。
ずっと行ってないあの地下街の喫茶店に僕はいて、父さんも一緒だった。いつもので、と答えてコーヒーが来て僕と父さんは二人して黙々と本を読んで。そしたら父さんは、そう言えば金子兜太の本どこいったか知らないか、と尋ねてきた。僕は気まずくなって、自分でも何を言ってるかわからない内容を必死に話して、席を立ち上がった。そこで目が覚めた。
戦わなければならない。